科研費基盤研究(A):イスラーム・ジェンダー学と現代的課題に関する応用的・実践的研究

<IG科研2022年度公開シンポジウム> イスラーム・ジェンダー学が目指すもの――公正の問題を考える

<IG科研2022年度公開シンポジウム>
イスラーム・ジェンダー学が目指すもの――公正の問題を考える

 イスラーム・ジェンダー学科研のプロジェクト第二期が始まり、今年で三年目となります。ここ数年、コロナ禍で開催を見送ってきた公開シンポジウムですが、今年度はハイブリッド方式で開催できることになりました。第一部では、イスラーム・ジェンダー・スタディーズの各巻編者が登壇し、科研でのこれまでの活動を振り返りつつ、何を発見し、学び、考えたのかを、会場の皆様とともに振り返りました。第二部では、「公正」を一つの軸として、今後の活動の展望を議論しました。以下に開催報告を掲載します。

開催報告1

 今回のシンポジウムでは、第一部でイスラーム・ジェンダー・スタディーズの内容と科研の活動を通した発見や学びを振り返り、第二部で「公正」を軸に今後の活動や新しい考え方について議論を行った。一部と二部の登壇者の順に、その内容と感想を書き記したいと思う。
 『結婚と離婚』の編者である森田豊子先生によると、イスラームの結婚のあり方や法は、時間的にも空間的にも多様性があるとのことだった。確かにイスラーム教は戒律が厳しく定まっているなど多様性とは縁のないイメージを持たれがちだが、世界の広範囲に信者が存在し、たくさんの人が信仰集団を形成しているのだから、均質化されていなくて当然だと感じた。自分自身も「イスラーム教は〜」と決めつけず、宗教について語る時は多様性を常に念頭に置いておきたいと思った。
 『越境する社会運動』の編者である鷹木恵子先生は、イスラーム圏の社会運動について、その目指すものや、それらがどう広まっていくのかについて話をされた。例えばチュニジアで、植民地時代にフランスから持ち込まれた種で在来種が圧迫を受け、それに対する環境保護の活動が起こった事例などを挙げられた。旧宗主国は自然や農業にも影響を及ぼしていたのかと驚いた。そういった活動では女性の活躍もあるとのことで、先の多様性の話のように、「イスラーム女性は戒律により押し込められている」といったイメージでは語り得ない強さがあると感じた。
 『教育とエンパワーメント』の編者である服部美奈先生のお話では、「教育制度と社会構造で矛盾があり、同じ教育を受けてもジェンダーで出口が異なる」という話が印象深かった。「イスラーム圏の女性は皆教育が受けられない」というようなイメージがあるが、実際は女子の高等教育が確保されている国もあるという。しかし女性が高等教育を受けることができても、社会に出て希望する職に就けないということもあるそうだ。「貧困のスパイラルから抜け出すには、安定した職を得るための教育が必要だ」といった言説はよく耳にするし私もその通りだと思っていたが、教育制度だけでなく社会も同時に変えていく必要があり、教育機会を用意して満足していては解決しきれない問題もあると再認識させられた。
 『フィールド経験からの語り』の編者である鳥山純子先生は、「フィールドワークとは現実と分断された視点から見るのではなく、現地に行って、巻き込まれて学ぶことだ」とお話しされた。自らが半ば実験材料のようになり、現地で生活する中で知見を得られるというフィールドワークに魅力を感じた。鳥山先生は差別について、「『女性』というレッテルを貼られることにより『私』の他の属性が消されてしまうことが差別の本質」「差別の原因が宗教やジェンダーなのではなく、利害対立がそれらの形を借りて差別や分断として現れる」と述べていた。私が以前インドの食生活や差別について学んだときも、「ベジタリアン・ノンベジタリアンの争いは、身分やカーストの差別意識が食という形で現れていることもある」といった話を聞いた。差別を語るとき、その本質はどこにあるのかという分析が、差別に真摯に向き合い解決を探るために必要だと感じた。
 『記憶と記録にみる女性たちと百年』の編者である岡真理先生のお話からは、「自分らしく生きる」とはどういうことかについて考えさせられた。岡先生は「社会や環境のために就きたい職や生き方を諦めざるを得なかった女性たちも、逆に恵まれた環境で教育を受け、道を切り開いた女性たちも、皆等しく自分の生を自分らしく生きている」とおっしゃっていた。しかし全女性の生き方を「自分らしい生」と全肯定したつもりにならず、その「自分らしさ」では解釈できない過酷に生きる女性たちにも目を向ける意識が必要だと学んだ。また、「自分らしく」生きることについて、私は今回の話は1人の中にも通じるものがあるのではないかと思った。1人の人生でも、自己実現が叶った部分と叶わなかった部分があると思う。それも全て「自分らしさ」と解釈できるのか、叶わなかった部分に対しただ悲しむのか他の事へのエネルギーに変えるのか、どういうマインドで対応し自分らしい生を構築していくのか、自分自身の生き方についての問題提起もされたと思う。
 二部の長沢栄治先生のご講義で印象に残っているのは、「Intersectionality = 交差点と訳していると見えてこないが、差別とは複数の差別意識がすれ違ったり別のものとして存在した結果ではなく、相互に結びついて生まれたものだ」というような話だ。私はこのシンポジウムに参加するのが初めてだったので的確な解釈をできていないかもしれないが、イスラーム・ジェンダー学はイスラームとジェンダーがただ結びつくのではなく、真ん中の「・」に第3の問題の軸を設定することで新たな研究フィールドを開くといった学問分野らしい。人々が普段「人種差別」「性差別」「宗教差別」などと一言で表現しているさまざまな問題も、本質を探っていくと別の対立や分断や嫌悪が絡み合って差別を形成しているのかもしれない。問題を解決し公正を実現するには、その本質へ目を向けることが必要かもしれないと思った。
 今回のシンポジウムでは、普段の学生生活では体験することのできない濃い空間で議論を聞き、良い刺激を得ることができた。今回得た知見を活かし、自分も1人の人間として何ができるかなどを考えつつ、これからも学んでいこうと思った。
(東京大学教養学部・伊藤楓香)

開催報告2

 「イスラーム・ジェンダー学が目指すもの――公正の問題を考える」と題して、イスラーム・ジェンダー学(以下IG)科研2022年度全体集会が2022年10月9日(日)、東京大学における会場とオンラインのハイブリッド方式にて開催された。まず、司会の後藤絵美氏が、IG科研の発足の経緯を説明し、研究成果を幅広い読者に届ける趣旨で工夫が凝らされた当科研のホームページと刊行書籍の紹介を行った。
 第一部「イスラーム・ジェンダー・スタディーズの軌跡」では、『イスラーム・ジェンダー・スタディーズ』の既刊4巻及び年内刊行予定の第5巻の各編著者がこれまでの活動と、編著書を編むにあたっての経緯や問題意識等について語った。
 第1巻『結婚と離婚』編者の森田豊子氏は、「時間的・空間的な多様性を考える」と題して、勤務先の鹿児島及び北九州でイスラームに関する授業やセミナーを開催してきた経験を基に、イスラームにおける空間的・地域的多様性及び歴史的変遷を細かく丁寧に見る必要があるとの編集における問題意識を説明した。また、これから刊行されるシリーズの基本とするべく、多言語で多岐にわたる用語集を共編者の小野仁美氏とともに鋭意作成し、第1巻内で取り上げた国・地域を示した世界地図を掲載する等、シリーズ第1巻として工夫を凝らした点を明かした。
 第2巻『越境する社会運動』編者である鷹木恵子氏は、「民衆の渇望へのアプローチ」と題して、本科研第一期に編集した第2巻について、意味を探求する解釈学的学問としての文化人類学における問題意識から、人々のニーズを踏まえたより実践的アプローチへと自身の研究姿勢が変化したことを踏まえ、人々がどのような社会的現実に不満を抱き、いかなる意味の網目を紡ぎたいと思っているのかという関心を基に編集したと述べた。そして刊行から二年半が経ち、第二期では「越境」する社会運動を水平的越境のみならず垂直的越境として、さらに人間と自然環境の境を越境して公正性を希求していく動きとしても捉えていく必要性があると問題提起をした。
 第3巻『教育とエンパワーメント』編者の服部美奈氏は、「選択できる人生を切り拓く」と題して、イスラーム地域の女子教育に対する一面的な見方を補正し、知の獲得がいかに人々をエンパワーするか等について、イスラーム世界の多様性を示す編集方針をとったと説明した。ムスリム女性の知の獲得には、近代教育の変遷における地域を越えた共鳴性と、地域の文脈で選び取られる地域性があるとした上で、他者の介入という共通の問題があると指摘した。さらに、教育を受けても女性の職が少ない社会的矛盾がある一方、賃金に還元されずとも社会的に活躍する女性が多い現実を踏まえて、ムスリム女性にとっての教育の意味付けを問い、教育成果を多様な視点から問い直す研究が必要であると述べた。
 第4巻『フィールド経験からの語り』編者の鳥山純子氏は、「知のメーキング現場としてのフィールド」と題して、第4巻を、女性のセクシュアリティが管理され、女性という属性に矮小化され劣位に置かれるといった構造的差別と社会的分断がいかに生成され表出するのか等について、個人のフィールド経験と語りに焦点をあわせて編集したと説明した。また、刊行後の現在、「分断」が生成される原因を理解する視座としての「イスラーム・ジェンダー学」を問い直し、被差別者が「分断」を語ることの意味及びその問題性を指摘し、公正が共生に必要か等の問題提起を行った。差別者、強者の側のロジック(インターセクショナリティを含め)ではなく、他者と連帯し生き延びるためのオルタナティブな知が不可欠であると述べた。
 第5巻『記憶と記録にみる女性たちと百年』編者の岡真理氏は、「〈わたし〉らしく生きる―女たちの生の軌跡と装い」と題して、本科研第一期に実施した公募研究を基にした第一部は、執筆者が各々の関心が深い人物を取り上げ、彼女たちを通して時代や社会が分かるような記述を依頼したとの編集方針を説明した。2021年7月に開催した装いに関するシンポジウムを基にした第二部では、マジョリティがパワーを持つ社会で女性が〈わたし〉らしく生きることを阻害するジェンダー問題を取り上げたと述べた。行動し記憶された女性たちの特権的な立場ゆえの選択に留まらず、記憶されない無数の女性たちの存在をいかに認識し語り記憶しうるのかというアポリアの存在を指摘した。
 続いて今後の第6巻~9巻の刊行予定を各編者が説明し、休憩となった。
 第二部「イスラーム・ジェンダー学が目指すもの」では、本科研代表の長沢栄治氏が「イスラーム・ジェンダー学と公正へのアプローチ ―intersectionalityと新しい人文学」と題する講演を行った。
 始めに、イスラーム・ジェンダー学は、イスラーム学でもジェンダー学でも地域研究でもないとの考えを踏まえ、本科研第一期を立ち上げた頃から、イスラームとジェンダーという言葉が持つインパクトや広がり、諸問題を「・(中黒)」に置いて関係性に着目して考察することに魅力と直観があったと述べた。そして、特に「公正」の問題を問う時、イスラームとジェンダーを用いて抑圧者が結託し連携する関係性が指摘でき、不公正を正そうとする闘いも連帯しなくてはならないと問題提起した。
 また、人権やジェンダーをはじめ、様々な問題において抑圧や差別が結託する関係性についてクレンショーのインターセクショナリティの議論を援用しつつ、複数の諸問題が結びついて全体主義が台頭したとのアーレントの考察を踏まえて、マジョリティ(特権的集団)によるトップダウンのアプローチでは多重の抑圧・差別構造及びその経験は可視化されないと論じた。
 さらに、サイードが晩年に追求した新しい人文学は、かけ離れたようにみえる個々人の経験が実は互いに作用し関係性を有することを対位法的に考察することによって、集合的経験である歴史を分析する可能性を提示していると述べた。そして、文化的領域を経験と分離するのではなく再統合することで、不公正としてのオリエンタリズムを克服し公正な世界を導くことができるのではないかと研究の可能性に言及した。
 最後に、積み残し課題として、人文学の世俗性の問題や、社会科学、自然科学との関係が論争的テーマとしてあると指摘した上で、IG科研では研究者の目的論と価値判断を明示し個々人の経験に基づくボトムアップのアプローチによって、不公正をいかに正すかという問題に取り組んでいく姿勢が不可欠であり、また公正を求めて闘っている人々や問題に通用する議論ができればとの今後のIG科研における目標を掲げた。
 質疑応答では、研究者が強い立場に立ち、そこから弱い立場の人々のために公正を「目指してあげる」となりがちではないかとの指摘があり、またそれに関するサイードの議論をどのように考えるのかという問いがあった。長沢氏は、機会を与えられている研究者が何をなすべきか、明確な目的意識を持たなくてはならないとし、またデイヴィスの「リーダーなき運動」を例に、研究は無知な人々を指導するという立場でするものではないと回答した。また、サイードは概念や理論からではなく、経験から出発して共生の関係を構築するスタンスだろうとし、IG科研も新しい社会認識と共生の秩序を、国際的に連帯し知恵を持って築き上げていく重要な分野を担っているのではないかと述べた。
 さらに、なぜインターセクショナリティという概念に注目しようと思ったのかという問いがあり、長沢氏は「交差」という訳語の問題性を指摘した上で、いかなる関係性で人が差別され抑圧されるのかという問題意識が元からあったとし、抑圧者が結託する関係があるという深刻な問題を明らかにする必要があると回答した。

 『イスラーム・ジェンダー・スタディーズ』各巻編著者の先生方による熱と気迫のこもった講演及び真剣な問題提起と、本科研代表者である長沢先生によるIG学発足当初の直観の回顧的説明と今後に向けた切々たる展望から、「イスラーム・ジェンダー学」の概念形成の源流とその流域の広がりが感じられる全体集会であったように思う。簡潔な報告を心がけた都合上割愛した、司会の後藤先生による各講演後の示唆に富むコメントと朗らかな司会進行にも大いに理解を助けられた。また、ハイブリッド方式の研究集会を滞りなく運営された事務局の皆さまのご尽力にも深い感謝の念を覚えた。本報告に曖昧なところがあるとすれば、すべて報告者の力不足に因るものである。
(千葉大学・幸加木文)

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日程:10月9日(日) 13:30~16:30(終了しました)
形式:ハイブリッド方式
会場:東京大学本郷キャンパス/オンライン(Zoom)

[プログラム]
司会:後藤 絵美(東京外国語大学AA研)

13:30-15:00
第一部 イスラーム・ジェンダー・スタディーズの軌跡
 時間的・空間的な多様性を考える(森田 豊子(鹿児島大学)、第1巻『結婚と離婚』編者)
 民衆の渇望へのアプローチ(鷹木 恵子(桜美林大学)、第2巻『越境する社会運動』編者)
 選択できる人生を切り拓く(服部 美奈(名古屋大学)、第3巻『教育とエンパワーメント』編者)
 知のメーキング現場としてのフィールド(鳥山 純子(立命館大学)、第4巻『フィールド経験からの語り』編者)
 〈わたし〉らしく生きる―女たちの生の軌跡と装い(岡 真理(京都大学)、第5巻『記憶と記録にみる女性たちと百年』編者)

15:00-15:20 休憩

15:20-16:30
第二部 イスラーム・ジェンダー学が目指すもの
発題:長沢 栄治(本科研代表、東京外国語大学AA研)
 「イスラーム・ジェンダー学と公正へのアプローチ ―intersectionalityと新しい人文学」

ディスカッション

[主催]基盤研究(A) イスラーム・ジェンダー学と現代的課題に関する応用的・実践的研究(代表: 長沢栄治、20H00085)

[お問い合わせ先]イスラーム・ジェンダー学科研事務局 office★islam-gender.jp ※★は@に変更してください。